”世界が許すと思わなかった”「娘は戦場で生まれた」感想
邦題「娘は戦場で生まれた」のどこか他人事な感じからして、
シリア内戦に巻き込まれた一市民を描いたものかと思っていました。
実際には、生まれたばかりの娘に語り掛ける形で母が自ら撮ったドキュメンタリー映画で、英題は「FOR SAMA」です。
なんでもない幸せの大切さ
戦地で子どもを産むことへの葛藤
戦地と化した母国しか知らない子どもたちは何を思うのか
平和に暮らしているとあまり考えることのないテーマが扱われています。
母国で日々のほほんと過ごしている私が、この映画に対して何かを語る資格はあるのかと思う一方で、一人でも多くの日本人に見てほしくて感想を書きます。
本作の背景:アラブの春
約40年間に渡りアサド家による独裁が続いていたシリアでは、
腐敗と不正と抑圧にまみれた国家に対する抑圧感情が「アラブの春」により爆発。
アラブの春とは、2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。
2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。
(中略)
幾多の戦争が起きた地域であり、情勢が不安定であったこの地域だが、2011年にチュニジアやエジプトなど30年以上の長期独裁政治が、数か月足らずの間に相次ぐ民衆のデモ活動で揺らぐことになった。
世界経済が不調のなか、もともとエジプトの騒乱では小麦価格の高騰による貧困層の困窮や、若年失業率(多いところでは5割)の大きさが原因としてあげられている。
逆に革命を引っ張っているのは、まだ少数ながら教育を受け経済力を持ち、情報手段を持つ「中間層」である。
これらの革命の背景にはソーシャルネットワーク(SNS)の役割も大きいとされる。
衛星放送やインターネットの普及で情報は瞬時に伝わり、携帯電話、ツイッター、フェイスブックなどで抗議活動に関する呼びかけなどが行われた。
以上Wikipediaから引用
シリア最大の都市アレッポでも、2012年から2016年にかけて、
シリア政府軍と反体制派が激しい軍事衝突を繰り返しました。
本作は、「アレッポの闘い」と呼ばれるこの期間の前後合わせて5年間を、
反体制派の市民視点で映すドキュメンタリー映画です。
「娘は戦場で生まれた」あらすじ
内戦の激化と前後して名門アレッポ大学を卒業した女性ジャーナリスト・ワアド。
当時、アレッポ大学でも、学生による大規模な反体制デモが起きていた。
両親はアレッポを出るよう強く勧めたが、
彼女はジャーナリズムの道を選び、友人らとともにアレッポに留まる。
若者たちは「革命」と、その先にある「平和」に期待を抱いていたのだ。
そしてワアドは、同じく革命を志す医師・ハムザと恋に落ち、戦場で出産。
長女は、自由の象徴である「空」から「SAMA」と名付けられた。
しかしその後、政府軍の潤沢な物資力を前に、
市民から構成される反体制派はじりじりと追い詰められていく。
「娘は戦場で生まれた」はグロい?
戦時下のドキュメンタリーなので、
当然、流血した人(子どもを含む)や遺体の映像が流れます。
戦争映画のような、
「画としてショッキングなシーン」はありません。
ただ、フィクションのように演出していないリアルな死は、
非常にあっけなく、淡々と片付けられていきます。
そしてそんな出来事が、
作中にSNSが登場するくらい本当に直近、あるいは今まさに地球上のどこかでは進行しているのだという事実に、精神的にしばらく落ち込みました。
シリア内戦とは?
シリアって、なんか危ないところなんでしょ?
テロリストがたくさんいるんだっけ?
とにかく渡航してはいけない場所だ。
だって日本人のジャーナリストも時々死んでいるし。
というあいまいなイメージを持っていたシリア。
本作を観た後に初めてきちんと調べたのですが、
めちゃくちゃややこしいです。
泥沼化している背景
正義は人の数だけあるとはよく言いますが、この内戦では、
「腐敗した独裁政治にNOを突き付け、自由を求める市民軍」
「シリアの民主化を支持する民主国家」
「クーデターを鎮圧したい政府軍」
にとどまらず、
「荒らせるところは荒らすテロ組織(ISIS)」
が現れて国内三つ巴になったあたりからおかしくなり、
「とにかくテロを許さないアメリカ」
「とにかくアメリカの逆を張りたいロシア」
など思惑が思惑を呼び、泥沼化していきました。
(個人的な見解を含みます)
そして今なお解決していません。
そもそも、
宗教と代理戦争という二大ややこしい問題が複雑に絡んでおり、
もはや解決の糸口も現れては消えている状態のようです。
意味がなくなる死
国が独裁されていることには異議があったかもしれない。
でも、デモをしていたら雪だるま式に大ごとになって、
敵が本当に殴りたい国の代わりに攻撃されるなんてあまりにも理不尽です。
ショックだったのは、少し前のシーンでハムザと談笑していた医療チームの仲間も、爆撃により次々と亡くなっていくことです。
スポットライトを浴びながらスローモーションで倒れるなんてこともなく、
淡々と、死んだことだけがナレーションにより語られます。
これはフィクションではない
主人公やその仲間たちは、マンガやドラマなら、普通死にません。
たとえ心臓に穴が開いても「世界の意思」によって生かされたりします。
たまに死ぬことがあっても、
「鬼滅の刃」で煉獄の死によって敵の強さを知らしめ、主人公たちが自らの実力不足を目の当たりにする契機になったように、
「進撃の巨人」でサシャを殺したガビが、のちに彼女が恩人の恩人であったことを知って民族間の連鎖的憎悪に疑問を持つきっかけになったように、
それらは意味のある死です。
しかし戦地での市民の死は、誰にも等しく突然ふりかかります。
本作が公開されたのも、
ワアドが主人公(撮影者)だからではなく、
ワアドがたまたま生き延びたから、
彼女の録っていたフィルムが編集され公開されるに至っただけ。
誰かにとっては必ず「特別」である命を、
流れ作業で扱わざるを得ない状況になってしまうのが戦時下です。
戦時下の子どもたち
そして最もかわいそうなのは、
選んでこの国に生まれたわけではない子どもたち。
ハリウッド映画などでは子どもはめったに死にません。
しかし現実の戦地では、身体も小さく非力な子どもたちは、
戦争をしていない母国すら知らないまま、巻き添えになって死んでいきます。
友だちがどんどん避難し、
あるいは死んでいき、クラスメートが減ったと話す子ども。
この子どもはそれでも、
「この国を出て行きたくない」
「将来は建築家になって国の建物を直したい」
と口にしました。
「良い時代」を知らない子ども
前述の子どもの母親は、
子どもが出て行きたくないと言うのに避難なんてできないと涙ながらに話します。
(これは、字幕によって本意から逸れている可能性もありますが……。)
でも子どもは、「いい時代」を知らないんです。
留まるかどうかの選択は彼らに委ねないでほしいと思いました。
それでも生まれた土地に愛着があるのは、
そこしか知らなければある程度あたりまえのことです。
ひな鳥が初めて見た動くものに着いて回るのと同じです。
どうか一人でも多くの子どもたちが助かってほしいと願います。
爆弾の降らない場所もけして美しくはない世界だけど、
せめてこの世界の広さを知ってほしい。
”そんなことを世界が許すと思わなかった”
冒頭、ワアドはこのように物語を語り始めます。
2016年7月 シリア政権と同盟国は街を包囲した
そんなことを世界が許すと思わなかった
戦争に思惑を以て介入する国はあっても、
いち地域の包囲を止める国はありませんでした。
国際社会は「現状の勢力図を保つこと」には興味があっても、
「誰も傷つけたくない」なんてヒーロー精神では動いていないのでした。
明日の私たちかもしれないという自覚
しかし、この言葉を聞いたとき、私はちょっとドキッとしました。
よく似たセリフは、日本でもよく耳にするからです。
いち国家の法律は、丸腰であることの美徳は、
けして私たちを守ってはくれないのではないでしょうか。
ワアドの物語は、いつかの私たちかもしれない。
自分の子どもが欲しいと願う自然な気持ちと、
こんな世界に生み落としてよいのか?
この国で無事に育てることができるのか?
という理性を戦わせなければいけない世の中に、どうかならないでほしいと願います。
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