一切共感できなかった陰キャによる「花束みたいな恋をした」文句タラタラ感想
公開時、大きな話題となっていた「花束みたいな恋をした」
有村架純・菅田将暉という、若手で1,2を争う人気俳優ふたりを主演に迎えただけあって、プロモーションもかなり気合が入っていたように思います。
Awesome city clubの「春の風を~♪」というサビに聞き覚えがある方は多いのではないでしょうか。
ずるずると観る機会を逃したまま映画館公開が終わってしまっていたのですが、先日ついにネトフリ解禁されたので観てみました。
「共感する」「泣ける」という感想をたくさん漏れ聞いていたのですが、個人的にはただただ頭を抱えるストーリーでした。
まだ精神的にまたは実際に、社会に出ていない男女が共感して泣くための映画なんじゃないかとすら思いました。
この調子で、ただ自分には合わなかったという話を延々とします。
「花束みたいな恋をした」あらすじ
麦と絹は、それぞれに気の乗らない飲み会帰り、たまたま同じ駅で終電を逃してしまう。
そんな不思議な縁から飲みに行った二人だが、話してみると奇妙なまでに好きな音楽や映画が一致し、あっという間に恋に落ちた。
アーティスト志望の麦とサブカルチャー好きの絹は、趣味を諦めずに生活するため、新卒でフリーターとなり同棲を始める。
仕事帰りには駅で待ち合わせをして、コーヒー片手に徒歩30分のアパートまで歩きながら話す、
休みには演劇や展覧会を見に行く、拾った猫も加わった暮らしは二人と一匹になり……
そんな毎日が楽しく過ぎていくが、「世間」は二人を放っておかなかった。
若さの中でもがく二人の5年間を描くラブストーリー
「花束みたいな恋をした」ネタバレ感想
冒頭に書いたように、延々と文句たらたら感想です。
どんでん返しがある映画ではありませんが、ネタバレも含まれますのでご注意ください。
主人公たちに一切共感できないところから始まる
ド頭から、イヤホンを分け合って音楽を聴くカップルに「それじゃ意味がないよ~」といらん口出しをしに行こうとする二人の男女が描かれます。
これが、本編の数年後に別々の相手と付き合っている麦と絹です。
このタイミングで「ああ、そういう性格の二人なのね」と、
主人公の二人に共感ができなさそうな映画だという心の準備ができたのはありがたかったです。
なにせガワが有村架純と菅田将暉なので、放っておいたら好きなんですよ。
顔だけで好感度120です。
しかし、「音楽」よりも「一緒のイヤホンで聴く」を楽しむ人が存在することも分からず赤の他人にべらべらと講釈を垂れようとする老害コースまっしぐらの若者であれば、いくらガワが良くても「何様やねん」が勝ちます。
そしてこの主人公二人、学生時代まで遡ってもこの感じで、ちょっと他害性のあるイヤなオタクなんです。
有村架純と菅田将暉が出演するAwesome city clubのMVだと思えば大丈夫、なんとかなります。
有村架純と菅田将暉が出演するMVと思って耐えるしかなかった
冒頭でも書いた通り、多分この映画で泣いた人はたくさんいるんだと思います。
私だって泣く側になりたかったです。
麦と絹が気持ち悪いなあ!!というノイズが強すぎて、全然二人の感情に寄り添えないんですよ。
私が二人に抱いた嫌悪感を分解すると、以下のふたつが主要素かなと思います。
① 若さゆえの甘さが許せない
② サブカルぶっている井の中の蛙感が気持ち悪い
一緒に観た同世代の友だちも①は耐えられなかったとしつつ、
麦と絹の趣味は「ゴールデンカムイ」以外なにも知らなかったので②は気にならなかったとのことでした。
②は麦と絹の趣味への解像度の違いでだいぶ変わりそうです。
めちゃくちゃ趣味が合う二人のすれ違いと別れ、の映画として見ることができれば。
「今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない人だよ」を「月が綺麗でも伝えたい相手もいないような人だよ」とか自分なりに変換して受け止めて流し見することができれば、泣けるのかも。
それはサブカルじゃなくてただのイヤな奴だよ
麦と絹は、「今村夏子のピクニックで心が震えない人間はクソ」という意識にも見えるように、「ディープな」自分たちにやや選民意識を持っています。
一昔前であればいわゆる「サブカルクソ野郎」と言われるような、ちょっと世間からはみ出して「普通」をナナメに見ているタイプの若者ですね。
ただ、劇中に登場する彼らの趣味って、けして国民的ではないにせよ別にサブカルでもない、絶妙にメジャーなラインなんですよ。
「大衆受けしないものの価値を”分かっている”自分に酔っている」というサブカルクソ野郎の性質を持ちながら、その実、サブカル界隈からはすでにメジャー認定されているものを羅列している。
そういう点では、彼らが馬鹿にした「自称映画うるさいマン」が「ショーシャンクの空に」を挙げていたのと変わらないんですよね。
他害性がある分、映画うるさいマンよりタチが悪いです。
「ワンオク・・・”聴けますよ”w」じゃないのよ。
これは個人的な意見ですし、まさにこの記事を書いている自分にブーメランが飛んでくるものでもあるのですが、
何事も、馬鹿にしているうちは自分のレベルが低いと思った方がいいです。
自分には価値の分からないものもひとつの在り方として認めて初めて、批評の入り口に立つことができるのだと日々思います。
さて、しかしそれでいて麦と絹に関しては、自分たちが真に価値があると思うカルチャーのことすら、本当に愛しているのか疑問を持つような仕草も目立ちました。
いや、別にいいんだけど、そういう人もいると思うんだけど。
たぶん「宝石の国」が好きな人は開いた漫画の上でお菓子食べない。
映画後半、社会に揉まれて「普通の人」になってしまった麦が、絹に借りた単行本をバン!と叩きつけるシーンや、「ゴールデンカムイ」を開いたまま机に置いたりするシーンがあります。
それらの行為を「変わってしまった」描写として描くなら、「変わる前」の二人をもっとそれらしく描いてほしいと思いました。
親のすねかじって偉そうなことを言うな
そんなサブカルチャー(?)の扱いがなくても個人的にキツかった点がこれです。
「変わってしまった」麦が、では何をきっかけに麦が変わったかというと、お金でした。
二人でフリーターしてぷらぷらしていたら、両家の親がそれぞれ会いに来て、やれ就職しろだの仕送りを止めるだのと彼らに言います。
ちょっと待って、え、仕送り……?
ここまでの麦と絹の暮らしぶりといったら、なんとも健康的で文化的で精神的余裕のあるものだったんです。
仕事帰りに喫茶店のテイクアウトコーヒー飲んで、焼きそばパンを買い食いして、猫飼って。
仕送り(5万)がなくなったので、仕事帰りに飲むコーヒーをコンビニコーヒーにしたという描写があるんですよ。
これまでの生活って仕送りで成り立っていたの?
この後書くように絹は元々お金持ちの家の子なんですが、麦は安アパートに住んでいたので、バイトで生活しているものと考えていました。
でもこの感じ、君たち二人とも多分親の金で大学行ったよね……?
いや、親は勝手に子どもを産むのだから、大学出るまで(学生のうちは)生活の面倒を見るのは当たり前という意見があるのも理解できます。
私もどっちかというとそう思っているところがあります。
でもだからこそ、親の金で生活しているうちは自立していないと思うんです。
社会に出てまで親の援助を受けている人間に、社会に対して何か偉そうなこと言える理由があるのか?
というノイズが、麦と絹のふるまいに常につきまとうようになりました。
この項に関してはただの暴言ですね。
「花束みたいな恋をした」に登場したカルチャー
私の友だちのように、これらを全く知らないで映画を見たら、
こういうの好きな人間は麦と絹みたいな自己中人間なのかと思われそうだからやめてほしいですよね……。
でも登場したカルチャー自体は本当に素敵なものばかりなので、興味がわいた方はぜひ手に取ってみてください。
麦と絹が好きなもの
「穂村弘」「長嶋有」「いしいしんじ」「堀江敏幸」「柴崎友香」「小山田浩子」「今村夏子」「小川洋子」「多和田葉子」「舞城王太郎」「佐藤亜紀」「天竺鼠」「cero」「(菊地成孔の)粋な夜電波」「きのこ帝国」「ゴールデンカムイ」「ほしよりこ」「ヴェイパーウェイヴ」「宝石の国」
などなど。
ついでに、後半に登場する出会った頃の二人を思わせるカップルが話していたのは「羊文学」「長谷川白紙」「崎山蒼志」でした。
2021年のオリジナル脚本映画なので、撮影時期を長く見積もったとしても
「原作が出たころ/撮影していた頃にはまだマイナーだったのに、映画作ってる間にメジャーになっちゃったー!!」
って感じでもないんですよね……。
うーん。
ゆずに謝ってくれ
あと謎の流れ弾を食らった「ゆず」と「ホビット」にも謝ってほしい。
「友だちがceroの高城さんと話して~、次の日ゆずのクオカード全部売ってました(笑)」みたいな台詞が出てくるんですよ。
こういうところに、彼らが「知る人ぞ知るcero>ゆずみたいな国民的アーティスト」と思っている浅さが出ていてむかつきました。
多分「ゆず」のクオカード集めるようなコアなファンなら、聴けば「cero」も好きになって自然だと思うけど……。
「ゆず」は「栄光の架橋」だけだと思ってる人が書いた感じがしてモヤッとしました。
それはそれとして、
有村架純と菅田将暉が歌う「クロノスタシス」は良すぎなので、このシーンだけでも観てほしいです。
「花束みたいな恋をした」の良かったところ
個人的もう二度と観たくない映画1位に躍り出た「花束みたいな恋をした」ですが、それでもいいな~と思うところはありました。
映画として信頼できると思ったという感じで、いずれにせよもう観たくはないのですが。
麦と絹の性格が一貫している
麦は多分、絹ほど趣味に打ち込めるタイプではないのだと思います。
結構、好きな人や憧れの人に染まってしまうタイプなんじゃないでしょうか。
「ボクたちはみんな大人になれなかった」の佐藤もこんなかんじでしたね。
佐藤が絹に出会っていたら良かったのにね。
普通の営業職に就いてみると、あっというまにその会社に染まって仕事にまい進してしまう麦。
趣味を続けるための仕事だったはずなのに、本屋に行っても実用書を立ち読みするようになってしまいました。
楽しいまま生きていくために絹にフリーターを勧めたときの彼とは別人のようです。
別人のようではありますが、環境に染まりやすいという性質は一貫しているのでリアリティがありました。
多分根底には「誰かに認めてほしい」みたいな気持ちがあるのだと思いますが、あまり深く考えたくないので一旦放っておきます。
麦と絹の育ちの差が描かれている
冒頭から、有村架純の姿勢がやけにいいシーンが目立ちました。
でもこれ、後々わかるのは絹というキャラクターの性質だったんですよね。
実は絹は、両親ともに大手広告代理店勤務のお譲さんなんです。
都内の立派な一軒家に帰るシーンからも薄々察せられるものでしたが、1時間時点くらいで彼女の両親が登場して明らかになります。
麦と絹では、全編通して絹のほうが「なんとかなる」ということを信じているように思います。
フリーターでその日暮らしでも、周りに合わせなくても、「困ったらそのときなんとかする」というスタンスで生きていられるのは、本当にお金がないと再起不能になるという恐ろしさを知らない無邪気さゆえに感じました。
お金持ちの人には分からないかもしれないんですけど、なんとかするためのお金がないからなんともならないみたいなことって起きるんですよ。
パンがないしケーキも食べられないし作るための小麦粉も買えないしだからって小麦作ろうと思っても収穫するまで食っていくだけのお金を作るために他の仕事してたら時間がなくなって畑が耕せないみたいなことってあるんですよ。
絹が就活をやめたのも、人生なんとかなると気づいたからじゃなくて、親にうるさく言われない方法(麦との同棲)を見つけたからですからね。
でも実際にちゃんと努力してしっかり資格を取って事務職に就ける要領の良さとかは、その育ちの良さゆえに「努力の地盤」があったからなんだろうなとも思わされます。
ちゃんと教育を受けてきた感じがします。
このあたり、ぐちゃぐちゃの字でまとまりのない履歴書をたくさん書いて結局ブラック企業に就職する麦との対比になっていて、え・この映画って育ちの違いとか出してくる感じなの?と狼狽えてしまいました。
ただ麦の親もフリーターの息子に5万も仕送りしてくれるような親ですから貧困という感じでもなく、というか花火に寄付しているところからも地元の有力者だと思うのですが、そうなると地方と都心の教育の質の差みたいなものを考えさせられました。やめてくれ~~~~~~~
絹の方がカルチャーにどっぷりだったのも、麦のいわば「誰かの趣味」をコピーしたであろう付け焼刃とは違って、幼いころから都会と感度の高い親によって色々な質の高いアートに触れて、自分で選んだ趣味だったからだろうなという気がします。
途中で書いたキャラクター性そのものには疑問が残るものの、キャラクターの一貫性にはとても信頼のおける映画でした。
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