本当は愛なんて説明がつかない「エゴイスト」ネタバレ感想
すごい映画を観てしまいました。
最近の映画が丁寧に台詞で説明しまくるのって、早送りして観られることを前提にしているところがあるらしいんです。
その時代にあって、ここまで行間と余韻で殴りに来る映画を作ることは、ある意味すごくチャレンジングなのかもしれません。
鈴木亮平さんをはじめとするキャストの上手さでもあるし、やると決めた製作陣の胆力であろうと思いました。
とにかくすごいです。
絶対に後悔しないので、もしも感想を見てから観に行くか決めようと思ってこのページを開いた方がいれば、ぜひ先に観てきてください。
以下は作中の重大な出来事や結末のネタバレを含む感想、考察になっています。ご注意ください。
「エゴイスト」あらすじ
女性ファッション誌の編集者である浩輔は、ゲイ仲間に紹介され、駆け出しのパーソナルトレーナー・龍太と出会う。
身体の弱い母を養うため必死で働いているという龍太。
14歳のとき最愛の母を病気で亡くしている浩輔は龍太にシンパシーを感じ、二人が惹かれ合うのにそれほど時間はかからなかった。
恋人の仲になった二人だが、順風満帆に思えたある日、龍太は突然別れを切り出す。
実は龍太は家計のために十代のころから売春を続けており、浩輔のことを愛してしまったことで、自分を売る仕事に支障が出始めたのだという。
しかしそれが、貧乏育ちで学もない龍太が稼げる唯一の方法であった。
止める間もなく姿を消した龍太を必死で探し、ついに再会した浩輔は、龍太と彼の母の生活を援助することを申し出る。
売春をやめ普通のアルバイトを始めた龍太と、今度こそ幸せな日々が続くはずだったが……
「エゴイスト」なぜR-15指定?
「エゴイスト」はR-15指定となっており、15歳未満は鑑賞することができません。
今回のレーティングはグロの方ではなく、性行為描写があるためと思います。
ちなみに、性行為の描写でR-15になるかR-18になるかって、腰を隠さない全身カットが入るかどうからしいです。
(もちろん判断基準はそれだけではないと思いますが)
たしかに、「エゴイスト」には全身カットはなかったし、R-18の「冷たい熱帯魚」は全身カットあったわね……と妙に納得してしまいました。
もしかしたら売春行為の方が引っかかったのかな?と思ったのですが、本作同様に男性同士の性行為描写がある「窮鼠はチーズの夢を見る」は、売春行為はないもののR-15でしたね。
「エゴイスト」とは何だったのか
まずはタイトルであり、オープニングとラストシーンに印象深く表示されるタイトル「エゴイスト」の意味について考えておきたいと思います。
冒頭、浩輔が口にする「なんで彼氏のママに会うからってそれに合わせて服を選ばなきゃいけないのか、好きな服を着ればいいのに」という趣旨の台詞に被せて「エゴイスト」と出ます。
あたしはあたしの着たい服を着るわよ! という姿は、まさにエゴイストっぽいですよね。
しかし、本作を通して描かれるほとんどの「エゴ」は、それとは全く逆の性質のものでした。
自分がしたいからするのだ、という免罪符
本作では「わがまま」という言葉や、あるいは「わがまま」として押し通される行動が何度か出てきました。
たとえば、浩輔が龍太に(のちには龍太の母にも)お金を受け取らせるシーンであったり、龍太が浩輔に別れを告げるシーンであったり、母が龍太と過ごした家を離れなかったことであったり。
「あなたのために」という言葉は出てこず、「自分がしたいからするのだ」という論理の元、彼らは相手にとって良かれと思う行動を取ります。
多くの場合、逆ですよね。
「自分が通したいこと」を「あなたのためを思って」と押し付けてくる人間はこの世にたくさんいます。
しかし本作の登場人物たちは、自分の通したいことを通すことを「わがまま」と言いながら、それらの根底には心底相手を思う気持ちがありました。
自分を二の次にしても、相手のために行動する。
これこそが愛なのではないかと思ったりもします。
語られないからこそ色濃くなる愛の輪郭
本作でかなり特徴的なのが、モノローグがほぼないという点です。
冒頭に浩輔が田舎へ帰るタイミングでしかほぼなかったと思います。
言うほど珍しいか?と感じる方もいると思いますが、
最近の映画って、揃いも揃って炭治郎か?ってくらい説明しますから、モノローグがなくても登場人物の思考が直接語り掛けてきます。
冒頭に書いたように「流し見でも物語が分かるように」でもあると思いますし、制作側の意図を「誤解」させないためでもあると思います。
個人的には、100人いたら100通りの受け取り方があるような懐の広い映画や、あえて直球で説明しなくても丁寧に外堀を埋められているような映画が好きなので、最近の、台詞でガチガチに解釈を押し付けてくる映画は、少しげんなりしてしまいます。
そこへきて本作「エゴイスト」は、心情説明のシーンがほぼありません。
いま自分がどういう出来事を受けてどう思っているか、というようなやりとりがほぼないんですね。
浩輔が本当はどういうつもりで龍太にお金を渡して、どういうつもりで車を買っていたのか、龍太がどういうつもりで浩輔にキスをして、どういうつもりでお金を受け取っていたのか、実際のところははっきりしないまま、時間が経っていきます。
つまり恋愛を要素に持つ映画でありながら、恋人同士が「愛」について持論を展開するシーンもないんです。
でもそれってめちゃくちゃ現実っぽいんですよね。
愛って本来は「好き」「愛してる」なんて言葉で表されるより、けだるげな事後に髪を乾かしてあげたりとか、朝相手より早く起きてコーヒーを淹れるとか、ちょっとした行動に現れてくるものなのだと思います。
龍太が「僕のこと好き?」といたずらっぽく聞いたとき、浩輔はふざけて「嫌い」なんて言ったあと「大好き」と言い直します。
これが本作で唯一の、言葉で愛が語られるシーンでした。
でも、それ以外のシーンで、二人がお互いを強く想い合っているのは、強く伝わってきました。
それだけに、浩輔にとって、あえて口に出したこのやりとりはとても特別だったのではないかと思います。
愛が何なのか分からない
終盤に差しかかり、龍太の母が初めて「愛」という言葉を口にします。
それに返す形で浩輔が「僕には、愛が何なのか分かりません」と吐露するのですが、ここで初めて、浩輔という人間にピントが合ったような気がしました。
浩輔には「愛」が何なのかずっと分かっていなかったんです。
だから、龍太を必死で探して生活援助の申し出をするときですら、殺し文句として「愛してるから」なんて言えませんでした。
ハイブランドを身に纏い、眺めのいい部屋に良質な家具に囲まれて暮らす浩輔は、それらのセンスには確固たる自信があるように見えます。
一方で、龍太に援助を提案するときなどは、どこか不安そうにしていました。
パパ活みたいにこれが正解だと自信たっぷりに買い与えるのではなく、あくまでも「こうするのはどう?」と提案して、その後に「わがまま」で押し通していました。
それは、「そうしていいのか」「それが正しいのか」自分の行動に自信がなかったのではないでしょうか。
浩輔は、心の中に闇があると言っています。
おそらくそれは「孤独」に近いもので、「孤独」とは、愛情が抜け落ちた穴だと思います。
彼の生来のものなのか、ゲイであることで周りから受けた仕打ちによるものなのか、あるいは早くに母を亡くしたからなのか、とにかく心の中に埋めようのない闇があります。
そのために「何かを愛しているときの人間の行動」みたいなものの、正解が分からないと思ってしまっているのではないでしょうか。
愛情を示したい、相手のために自分にできることは何かと考えたときに、いつも金銭での解決になってしまうのは、それが価値として一番確かなものだったからだと思います。
ラストシーンのわがまま
さて、そんな不器用なわがままの応酬が繰り広げられる「エゴイスト」ですが、冒頭シーンの「着たい服を着ればいいのよ」と対になる形で、ラストシーンにも、性質の違うわがままが一つだけありました。
それが、余命いくばくとなった龍太の母が、浩輔を引き留めるシーンです。
いつものように病室に花を活けて、夕方まで病院にいた浩輔が帰ろうとしたとき、弱弱しい声で龍太の母が「まだ帰らないで」と頼みます。
これは、龍太の母が自分のために、ただ浩輔にいてほしいと頼んだものでした。
このシーンだけを見れば、エゴイストなんて大げさな言葉を使うようなものではないのですが、ここまでに映画の中で積み重ねてきた特殊のエゴイズムの上にこれがあると、とても尊くて特別な、絶対に叶えてあげたいわがままであるように感じます。
そして、自分のためのわがままを言っている相手の願いを叶えることは、100%相手のために尽くせることでもあります。
だからこそ浩輔はあれほどまでに優しい笑顔で「はい」と言って手をさすったのではないでしょうか。
セクシャリティについてほぼ触れないすごさ
ポスターからも男性同士の恋愛映画であることが分かる本作ですが、セクシャリティについてはほぼ触れられません。
たとえば付き合っていることについて周りから何か言われるとか、ゲイである自分について思い悩むとか、そういった、同性愛者であることに起因した問題が描かれるシーンは、本作にはほぼありません。
ただただ「仲間内のコミュニティ」や「愛し合っている恋人同士」が描かれていて、性的マイノリティであっても、ゲイである以前に一人の人間としての当たり前の生活があるのだということが特別扱いをせず描かれていて、すごく良かったです。
じゃあ異性恋愛映画でもよかったの?
ただ、じゃあ龍太のポジションが女性で、いわゆる「よくある」恋愛映画だったとしたら、この映画は成立しなかったと思います。
龍太の母にとっての浩輔は、息子の妻や、もしいたとして娘の夫とは、やっぱりちょっと違ったと思うんです。
亡くなった子どもの、その同性の恋人。
恋人を亡くしたゲイと、恋人の母であったことに大きな意味があったと思います。
浩輔がたまたまフェミニンな感情も持つゲイだったことで、龍太の母とは同性のような、でもやっぱり異性のような、不思議な関係を築きます。
でももし主人公二人が男女カップルだったら、どういった組み合わせであれ、龍太の母と浩輔のようにお互いに踏み込みすぎない関係では描かれなかったような気がします。
浩輔は、心と体の性別が一致しなかった女性でもないですし、男性でもないですし、ゲイなんです。
ゲイ仲間とのシーンがたくさん入っていたのも、浩輔があくまでもゲイであり「女性」ではないことを示す中で、重要だったんではないかと思います。
爆泣きしたシーンの話させて
ここから先は考察でも感想でもなく、ただただ爆泣きしたシーンの話をさせていただきます。
早くもう一回観たい。
でも辛い別れがあるって知っていると、二回目以降の出会いのシーンって泣いちゃいませんか?
私はそのせいで「タイタニック」は一番有名なI’m flying!のシーンで泣きます。
浩輔と一緒に泣いてしまう
龍太、死んじゃいました。
という呆然とした母の声で電話を受け、浩輔は龍太の葬式に足を運びます。
このシーンではまだ、母に彼らが恋人同士だと知られているとは知らず、あくまで親しい知人としてやってきた浩輔。
毅然として焼香しますが、たまたま何かにつまずいたことで張りつめていた糸が切れたように、その場で泣き崩れてしまいます。
思い出しただけで泣く。
男泣きでもなく、どこかフェミニンで、でも女性特有のヒステリックな泣き方でもなく。
鈴木亮平の演技は全編通して本当に繊細だったのですが、このシーンは特に鳥肌が立ちました。
そして、浩輔が泣き崩れるシーンがもう一か所あります。
龍太の母が末期がんであることを知った帰り、水を買おうとしたところで、動揺が収まらず小銭をばらまいてしまうんです。
それを拾い集めながら、立ち上がれなくなるほど泣き出してしまう浩輔。
これ絶対出会った日の龍太を思い出してるじゃん……
と思わせるのは、本当に映画の作りが丁寧としか言いようがありません。
出会った日のカフェの会計で、自分よりずっと稼ぎの良い浩輔を制して筋を通したのに、そのしっかりした姿勢に似合わず、小銭をばらまいた挙句カウンターに頭を強打するという少し天然なところを見せた龍太。
出会った日のことを思い出してしまったのをトリガーに、浩輔と過ごしていた時間の龍太の可愛らしい笑顔が頭の中に溢れて、私ですらこんな気持ちになるのに浩輔に至ってはいかばかりかと思いました。
浩輔の両親の話
龍太の死後、探し物のために浩輔は実家に立ち寄ります。
私は、ここで浩輔が何を探していたのか実はよくわかりませんでした。
「俺にしか分からないものだから」「東京の家もう一回探してみる」
と言っているのですが、何を探しに来ていたんだろう。
私が何か見落としたかもしれませんし、ただ母に手を合わせる口実だったかもしれません。
その日の夜、浩輔は思いがけず、父から母の在りし日の姿について聞くことになります。
病気だった母が、父のためを思って別れを切り出したこと。
父は不器用なりに、自分を嫌いでないのならば別れない、出会ってしまったのだから仕方ないのだと言って、最期まで一緒にいたこと。
それは否が応にも、龍太と浩輔の姿に重なるやりとりで、浩輔は自分が龍太のために施すことの言い訳と正解を見つけたのでした。
「エゴイスト」上映シアター
良いことも、悪いことも、いかにも「ありそうな」「起こりそうな」形でそこにあって、そして少しずつ予想の斜め上を行く展開が物語を動かしていくのが、まさに私たちは浩輔の人生を眺めているのだと思わされました。
ものすごい映画でした。もう一回、劇場で観たい。
原作小説も
残念ながら作者は「エゴイスト」映画化の知らせを受ける前に亡くなってしまったとのことですが、「エゴイスト」には原作小説があります。
細かい部分に色々と差異があるのですが、全体として原作版の方が浩輔が人間臭い感じがしました。
映画よりももっと切迫した状態の中で、愛する男とその母を助けようともがいている様に、胸が痛くなります。
映画とはまた違った愛がありました。ぜひ読んでみてください。
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