水は低いところに流れる「悪は存在しない」ネタバレ感想
エンドロールが流れ始めたときの感想は、「邦画でここまで投げっぱなしにされるとは嬉しいなあ」でした。
これからこの映画を少しでも観るつもりがある方は、できれば、この記事も他の人の感想も、何も見ずに、映画館に行ってほしいです。
少なくともその状態で行った私は、死角からブン殴られたみたいな驚きがあって、脳みそがどきどきしました。
以下はネタバレを含む感想と、個人的な考察です。
「悪は存在しない」あらすじ
長野県にある「水挽町」は、戦後ゆるやかに発展してきた小さな町で、住民たちは現動物や森と共存しながら慎ましく暮らしている。
巧とその一人娘・花も同様で、湧き水を汲み薪を割り、学校からの帰り道は木々の名前を当てる遊びをするような穏やかな生活を送ってきた。
そんなある日、東京の芸能事務所が町の近くにグランピング場を開業しようとしていることが知らされる。
地域住民向けの説明会では、森の環境や町の水源を顧みないずさんな営業計画が明かされ、さらに芸能事務所スタッフの不遜な態度もあり、住民たちからは反発の声が上がった。
スタッフたちはなんとか住民を説得しようと、町の中心人物でもある巧を取り込もうとするが・・・
「悪」は、「悪意」は、どのような形で、いつどこに宿るのか。
ドライブ・マイ・カーのスタッフが再集結
本作はミニシアター系の作品でありながら、アカデミー賞受賞作の「ドライブ・マイ・カー」のスタッフが再集結した作品です。
私は北海道の出身なのですが、重い雪が積もる町特有のどこか不穏な冬が、その雰囲気を保ちつつ、とても美しく描かれていて感動しました。
作中で大切にされている水の描写も綺麗で、ぴんと冷たそうな雪解け時期の湧き水、もうもうと湯気を立てるうどん釜の水・・・
住民たちの生活を支えている水はなんだか神聖に見えました。
「悪」とは何なのか
一応、タイトルでは「悪は存在しない」と言っているので、その前提で「悪」とは何を指すのか?についても考えておこうと思います。
後述するように、本作では突如やってくるラストシーンでどうこねくり回しても擁護しきれない「悪」が描かれます。
「いやいや、今見たわ、悪を」となるのですが、そのラストシーンを擁してなお「存在しない」と言い切るのなら、「悪」とはどのように定義されているのでしょうか。
誰かにとっての善、誰かにとっての悪?
こういう話になると大抵出てくるのは、「誰かにとっての善も誰かにとっての悪」みたいな話ですよね。
戦争で殺し合っている同士にもそれぞれの大義があるとか。
私も、タイトルしか知らずに見た本作の途中まで、
「あーなるほどね。完全に理解した。地域活性化を”させてやろう”っていう思い上がった「善」が、住民側からすれば当然「悪」だって話ね。」
などと思っていました。
しかし、残念ながら本作はお仕事映画ではないので、グランピング場の運営と住民の隔たりを解消することが目的ではないんですね。
つまりタイトルで示される「悪」は、そんなチャチなものではなさそうなんです。
きれいごとは悪なのか
では一旦「悪」を置いておいて「存在しない」に着目してみます。
作中で耳に残ったのは、黛が「(芸能界には)きれいごとが存在しないって感じで結構好き」と語った台詞です。
きれいごと、というと皆さんはどういった印象でしょうか。
「口先だけの嘘」とか「建前」とか、そんな感じでしょうか。
黛の前職は介護福祉士。
完全にイメージなんですけど、なんというかきれいごとを避けては通れなさそうですよね。
前職で心が壊れかけ、「テレビとか好きだったし」という理由で芸能事務所のスタッフに転職します。
芸能界がお客さんに見せる姿はまさにきれいごとですが、黛がいるのは裏方ですから、きれいごとなんて存在しません。
私もかつてその末端にいたので、高橋と黛のお仕事シーンは笑ってしまうくらい覚えのあることばかりだったのですが、基本的には驚異の体育会系社会です。
彼らを雇っている芸能事務所の社長は、補助金が出るとなれば縁もゆかりもないホテル業に手を出し、住民なんてテキトーに丸め込め、女を使え、酒を持っていけなど言いたい放題。
でもその欲にまみれた業界では体裁のために取り繕う必要もなくて、最悪ガッツさえあればなんとかなる(し、そのエイヤ!みたいな意識が令和のいまだ業界全体に蔓延している)というのが「嫌いではない」のも、分かる気がします。
ではもし「きれいごと」=「悪」とするなら、「口先だけの嘘」は作中に「存在しない」のでしょうか。
ここで、哀れな高橋について考えてみたいと思います。
高橋という人間
黛の先輩社員である高橋は、グランピング場建設プロジェクトの主担当として、説明会のため水挽町を訪れます。
ずさんな計画を住民から理路整然と指摘されぐうの音も出なかった上、コンサルに刷り込まれたのか「町の利益にもなる」などと言って彼らの感情を逆なでし、説明会の空気を最悪にした張本人です。
しかしそれでいて、板挟みになっている黛のメンタルを心配したり、巧にまき割りをやらせてほしいと声をかけたりと、根っからの悪人ではなさそうな雰囲気。
高橋は、良く言えば「バカだけどいい奴」、悪く言えば「救いようのないバカ」なのです。
前述のように、エンタメ業界はいまだガッツ至上主義なので、こういった鋼の心臓とフットワークの軽さが売りみたいな人間にちょこちょこ出くわします。
彼は当初は付き人兼俳優として業界に入ったものの、付き人をしていた俳優のスキャンダルを機に裏方に回らざるをえなくなり、それから十数年間スタッフとして働いています。
俳優よりも裏方に運命を感じたようなことを言って正当化していますが、単純に考えることから逃げているに過ぎません。
現に今回も住民説得に行き詰まると、文句たらたらで「辞めようかな」などとこぼし、グランピング場の管理人というふわっとした選択肢に飛びつきます。
さらにここでも、俳優を辞めたときと同様、正当化しようとしているのが見て取れます。
「これは個人的な話になるんですけど、さっき薪を割った時、これまでの人生で一番ぐらい気持ちが良くて、ああ俺・コレなのかな・・・ッて思って」
「とても身体が・・・温まりました」
「それって味じゃないですよね」
※台詞はうろ覚え
このように隙あらば自分語りをする姿からも分かるように、彼は本質的には自分をよく見せることしか考えていません。
しかし救いようのないバカゆえに自分ではそれに気づけないんですね。
自分が「良い」と思っていることを相手も共有してくれると思っているのでエモーショナルに話すのですが、なんせ内容が自分語りなので誰の心にも響いていません。
(そもそも最初にやらかしているので、失った信頼はなかなか取り戻せないですよね。)
ただ個人的には、ここが本作のミソなのではないかと思っています。
高橋の台詞って、周りにとっては「聞こえのよいその場しのぎの嘘」なんですけど、おそらく高橋にとってはその場では本心なんです。
高橋は、世話をしてくれる人がいなくなって俳優から裏方に転向したのが運命だったとも、グランピング場は地域活性化にもなって良いことだとも、(説明会の後からは)水場に影響が出るから本当はグランピング場の計画をやめたほうがいいとも、その時々では本気で思っているんだと思います。
だから本作において「口先だけの嘘」を「悪」だとするなら、「悪」は「存在しない」のだと思います。
高橋のように風見鶏なキャラクターは他には登場しませんが、本作で描かれるのはそれぞれの本心だけです。
たとえばコンサルや芸能事務所の社長はゴミみたいな倫理観の持ち主ですが、彼らとしては本心でそれらの倫理観に基づいた行動をしていて、あくまでも嘘ではないし、悪だとも思ってやっていないわけですよね。
「悪は存在しない」ラストシーンの謎
さて、哀れな高橋について語った以上、ラストシーンへの言及は避けられません。
気づかないうちに次の映画始まったのかと思いました。
それぐらい怒涛のラスト10分(ぐらい?)でしたね。
こちらは外国版のポスターなのですが、
This haunting stealth thriller(隠れスリラー)言うてもうてる!!
やっぱりそうだよね、スリラー映画になったよね、突然。
というわけで、何が起きたから静かなドラマ系映画が突如スリラーの牙を剥いたのか、あれはなんだったのか、考えていきたいと思います。
何が巧のトリガーになったのか
本作で描かれる巧という男は、淡々としていて誰にでもフラットな態度で接する人物です。
町の便利屋を名乗り、飲食店のための水汲みなどを請け負ったり、薪を割ったり。
木々や動物といった自然の生態にも詳しく、住民たちからも一目置かれています。
もちろん、娘の花や親しい住民たちと過ごしているときはより柔らかな雰囲気をまとっていますが、無茶な計画を披露した芸能事務所の人間に対しても必要以上に邪険にしません。
お互いのためになるなら協力しようという姿勢すら見せます。
そうやって丁寧に丁寧に描かれていた彼が、個人的な一時の感情の昂ぶりに任せて無関係な人間を締め落とすとは考えづらいんですよね。
そこで「一時の感情ではなかった(蓄積があった)」・「無関係ではなかった(花の死に高橋が関与した)」のいずれかまたは両方の可能性から、なぜ巧が高橋を殺した(仮)のか考えてみました。
高橋たちへの感情が爆発した説
芸能事務所の二人は、住民説明会を経て、町や環境のことをもっと教えてほしいと巧に頭を下げます。
それはどちらかというと、会社に言わされたものではなく、住民たちの姿に心打たれた本心のように見えました。
そして巧も、最初の説明会でやらかした高橋への印象を引きずることなく、その場の彼らの態度に応じて接しているように感じました。
グランピング施設の抱える汚水問題や、管理問題が解決すれば、開業への協力もやぶさかではないというのは事実のようです。
高橋に薪の割り方をレクチャーしたり、地元の水を使ったうどんを食べに行ったり、水を汲ませてみたりして、「あら~いい話!」と思っていたのも束の間、突然のラストシーンです。
この間にあった印象深い話としては、やはり車内であったシカの話です。
高橋と黛に自然を見せた後、巧は、グランピング施設の建設予定地がシカの通り道であることを切り出しました。
都会人の二人は、それが何を指すのかピンとこないようで、あまりかみ合わない会話が続きます。
奈良のシカなんかは人を襲わないですよね。(高橋)
あれは人に慣れているから。(巧)
シカ避けの柵を作らなければいけないということですか?(黛)
シカは高く飛ぶので、シカ避けの目的なら3mの壁に囲まれた施設になるが、それは客にとって嬉しいのか。(巧)
シカとふれあえるって、都会から来るひとにとってはむしろ良いことだと思います。(黛)
シカは人を見たら逃げるので、ふれあうことはできない。(巧)
シカって人を襲うんですか?(不明)
襲わない、手負いでもない限り。(巧)
人を見たら逃げるなら、柵がなくても、グランピング場の客には影響がないのではないか。(高橋)
そのとき、シカはどこへ行くのか。(巧)
え、どこかに・・・(高橋)
ちょっと思い出せない部分もありますがこんな会話があって、最後の問答を最後に、巧はタバコに火をつけてこの会話は終わりになります。
別のシーンで高橋がストレスを感じて車内でタバコを吸おうとするシーンがあるので、おそらくこの時の巧はある程度のストレスを感じていたものと思います。
地元にいるシカは必要ならいればいい・じゃまなら追い出せばよいと言う人が、どうして地元にいる人間にそうしないと言えるでしょうか。
高橋と黛は結局どこまで行っても都会からこの土地を破壊しに来る側の人間だというのが、この会話でよく分かりました。
でも、じゃあ帰れないように殺しちゃお! となるならさすがに因習村すぎます。
だから、これが直接の殺意のトリガーではなかったと思います。
実際に、このあと怪我を負った黛の手当てをしてやったりしていますし、多少心を閉ざしたにしても、これだけですべてが台無しになったわけではなさそうです。
ただ、明らかにこのあたりでストレスや不信感の蓄積はあったというのが、前提になります。
花の死に無関係ではなかった説
一時の感情の昂ぶりに任せて無関係な人間を殺しそうにはとても見えない巧が、高橋に殺意を抱き実行するほどの動機は何か。
「無関係ではなかった」説を、前項で見た「結局、高橋や黛も芸能事務所の親玉と変わらない」という描写を前提として考えてみます。
花はいつものように、巧の迎えを待たずに一人で学童から帰り、寄り道しながら歩いていたようでした。
そしてそのまま行方不明になり、何もない雪の上に倒れた状態で見つかります。
花が倒れていたのは、おそらく、別のシーンでも行ったと言っていた「原っぱ」のど真ん中です。
明らかに森林を意図的に伐採したような不自然にだだっ広い空間で、もしかするとここは、まさにグランピング場の建設予定地なのではないでしょうか。
芸能事務所の社長もすでに土地は買っていると言っていたので、5月建設予定で雪解けの頃なら、すでに更地になっていても違和感がありません。
そこで手負いのシカに運悪く出会ってしまったか、何らかの発作に襲われたか、理由は分かりませんが、とにかく花はそこで倒れていたのです。
実際にシカ撃ちをしているのは別の人間なので「やり場のない怒り」ともいえるのですが、自然に対して手を加えた結果に対して責任を取ろうとしない人間がそこにもいるのは事実です。
これまでの蓄積を考えれば、同種の人間である高橋や黛に対する怒りに繋がってもおかしくないように思いました。
花と高橋は死んだのか、夢なのか
とはいえ、花と高橋は本当に死んだのか? という点は明示されていません。
花は鼻血を出して気を失っていただけかもしれないし、高橋は息を吹き返してから自力で戻ってこられたかもしれないですよね。
ただ、個人的には二人とも死んでいたものと思います。
とくに高橋は、運よく息を吹き返したとはいえ目印も土地勘もない森の中に置いていかれているわけで、体力100%の状態でもなかなか難しいのではないでしょうか。
花を見つけたとき、手負いのシカと花が対峙している幻のようなシーンがありました。
ぱっと見は、その場面に巧と高橋が出くわしたように見えましたが、巧が駆け寄ったときには花はすでに青白い顔をしていたので、過去なのだと思います。
巧は、住民説明会でマイクを受け取ったときにトレードマークの帽子を取って話していて、それがとても印象的でした。
そんな父に倣ってか、花も帽子を脱いでシカの警戒心を逃がそうとしていたのがなんとも健気でした。
水は低いところに流れる
さて、本作全体を流れているテーマとして「水は低いところに流れる」がありました。
水以外のものも大抵は低い側へ流れますし、私も子どものころは親に「低きに流れるのだから悪い環境に身を置くな」みたいなことを口酸っぱく言われたものです。
しかし本作では、低いから悪いではなく「水は低いところに流れる」という事実が、何度かテーマとして示されます。
しわ寄せは下流で起きるということ
水挽町はその名の通り水資源の豊かな町で、飲用に使える水が湧いています。
水の美味しさに衝撃を受けて移住してきた住民もいるほどです。
しかしグランピング場建設の住民説明会では「仮に一日あたり数人分の生活廃水が町の水場に流れたとしても誤差だ」などという高橋の発言もあり、大紛糾。
水挽町の町長は「水は低いところに流れる」という摂理を高橋と黛に語りかけました。
「上流での影響は、ひとつひとつが軽微なものでも、下流で大きく溜まって現れる」「だから上流の人は下流への責任を持たなければいけない」といった内容です。
住民たちの切実な説得を受け、高橋たちは一度話を持ち帰りますが、コンサルや社長からは押し通すようにと言われ板挟みになります。
「住民のガス抜きができたことは収穫」などと言い放つコンサルに「ガスを浴びているのは自分たちだ」と噛みつく高橋。
ここで、コンサルという上流の無茶ぶりのしわ寄せを、下流の末端社員が受けているという図を見て、なるほどと思ってしまっていました。
本当の下流はここではなかったんですね。
実際には、コンサルの思惑、社長の思惑、高橋と黛の思惑・・・
そういった本人以外には「悪意」とも取れる汚い行いが、水挽町にすでに影響を及ぼしていて、最下流で花の死という結果に繋がってしまったのでした。
あくまでも、明確な悪意が彼女を殺したわけではないんですね。
それで「悪」は「存在しない」というタイトルを付けているのだから、皮肉が効いていると思います。
自分がいつも下流とは限りません。
自分の中の「悪」について考えるべき作品だと思いました。
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