多様性ごり押し映画「そばかす」ネタバレ感想

三浦透子が無性愛者を演じるということで、公開を楽しみにしていた「そばかす」を観てきました。

 

 

映画に限らず多くの創作物には「これを言わせたかったんだな」という台詞があったりするものですが、個人的には、それをいかに浮かないようにするかは大切なのではないかと思っています。

 

目立つからこそ受け手に伝わり、それが作品の「メッセージ性」になるわけで、目立たせることが悪いとは思いません。

ただ、浮いてしまうと、急に作品越しに作者の顔が浮かんでちょっとシラけます。難しいバランスだなと思います。

 

そういう意味で「そばかす」は、ところどころで「私は多様性に理解があります!!!!!」と言っている作者の顔が浮かび、個人的には入り込みきれない映画でした。

 

ネタバレを含む記事になりますので、未視聴の方はご注意ください。

 

三浦透子主演「そばかす」あらすじ

蘇畑佳純(そばたかすみ)は、他人に性的興味を抱いたことがないまま30歳になった。

興味を持てる相手が現れていないのではなく、それが自分の性質であると理解しているが、家族にも話したことはない。

 

あらゆる席で打ち解けるための「共通の話題」として用いられる、恋愛に関する会話。

転職先の幼稚園では、未就学児すら付き合ったり別れたりといった恋愛模様を繰り広げている。

 

人は生きている以上、恋愛から逃れることはできないのか?

人を「愛する」とは何なのか?

 

周りの人々と彼らの恋愛を通して、無性愛者の佳純が自分の心に向き合う物語。

 

描きたい要素が渋滞した印象

タイトルでも書いたように、途中で「私が気づかなかっただけでマンガ原作なんだな」と思いました。

 

というのも、本作では地元に帰ってきたかすみが色々な人と関わる様子が描かれるのですが、なんとなく「立て続けすぎる」印象を受けるんです。

時系列的な矛盾はないものの、別に順番が前後していてもそれほど影響がなさそうな独立したエピソードが並んでおり、「1話完結のマンガの劇場版」みたいな作りに感じました。

 

で終わってから、じゃあ原作を読もうかなと思って探したんですけど、出てこないんですよね。

 

これ本当にマンガ原作じゃないんですか?

途中で省略されているエピソードとか本当にないんですか?

 

もしご存じの方いたら教えてください。

 

というわけで、章ごとにかすみを追っていきたいと思います。

 

第1章「一般的恋愛」

第1章では、恋人のいない娘を心配したかすみの母親が代理婚活を始め、同じく結婚願望のない男性と引き合わされます。

 

「今は」結婚願望がなく、仕事に打ち込みたいという彼に対し「自分と同じだ!」と思ってしまったかすみ。

友人として二人で出かけるなど順調に仲良くなりますが、そうこうしているうちに彼から恋愛感情を向けられてしまい、楽しかった友人関係は終わりを告げました。

 

個人的にはこのあたりで、かすみに対する違和感が大きくなりました。

 

かすみは自分が無性愛者である自覚を持っています。

自分の「好きな人がいない」「結婚はしない」と、一般的な「好きな人がいない」「結婚はしない」が明らかに違うことは、すでに分かっているはずです。

後者には「今は」が隠されています。

 

これはもう一度観てみないと確実には言えないのですが、たしかお見合いシーンで彼も「今は」というようなニュアンスを使っていたと思います。

 

いずれにしても、お見合いに乗り気ではなかったくらいしか根拠のない彼を「自分と同じだ」とぬか喜びして、いざ告白されたら絶望的な表情を浮かべるというのは、ちょっとピュアすぎるのではないかと思いました。

 

かすみは冒頭の合コンシーンでも男性からアプローチされており、これまでにも男性から好意を向けられたことはあったはずです。

「またか」「やっぱりな」くらいの諦めがあっても良さそうなのですが、ものすごい勢いで彼を引き止めにかかります。

 

周りの登場人物たちからの評価を聞くに、どちらかというと一匹狼的なポジションを確立しているらしいかすみとしては、ちょっとイメージの合わないシーンでした。

 

この引き止め方も若干ヒステリックで「女感」があるのも他のシーンのかすみと少しずれていて不思議でした。

「男」相手だからそうなったのだとしたら、結局「恋愛」の真似事なんですよね。

 

うーん。

 

第2章「ゲイの恋愛」

さて、お見合い彼との友人期間、かすみは偶然にも中学時代の同級生と出会い、彼の紹介で幼稚園に転職します。

 

生まれてまだ数年の子どもたちが「XXちゃんのこと好きなんだってー」「でも付き合えないんだってー」「フラれちゃったんだってー」と達者に恋愛する姿にかすみは驚きます。

最近の子はおませです。

 

なんだかんだあった後、同級生くんにお見合い彼とダメになってしまったことを話すかすみ。

ここで同級生くんまで「俺と付き合う?」とか言い出すものですから、出た・・・と思いました。みんな思ったと思う。

 

これは彼なりの冗談で、自分はゲイなのだと打ち明けられます。

かすみになら言ってもいいかなと思ったとのことです。

 

期待通り、かすみは特に変なフォローも、避けることもしませんでした。

みんながかすみのようなら東京から帰ってくる必要はなかったと彼は言うのですが、田舎の方が肩身狭そうですけどね・・・。

職場で何かあったのかな。

 

第3章「多様性」

都合よく現れた友人2号、真帆です。

都合はいいものの、前田敦子がめちゃくちゃ良くてハマり役でした。

 

ゲイの同級生にしても真帆にしても、「偶然」地元に帰ってきていて、「偶然」かすみを見つけて、向こうから話しかけてきます。

かなり舞台装置感があります。

 

さて、そんな真帆の役割は言ってしまえばモロ「多様性」でした。

AV女優の仕事に区切りをつけ地元に帰ってきた真帆ですが、男に媚びを売らなければいけない風潮に異を唱えるフェミニスト的な一面も持ちます。

 

このあたり、「アラサーちゃん」のヤリマンちゃんが終盤に突然フェミニスト化したのと似たものを感じます。

ちなみに「アラサーちゃん」7巻では、性産業に従事していると性差別的な言葉を受ける頻度は一般の女性よりさらに高く、コップの水があふれるように、あるとき突然フェミニズムに目覚める人は多い(大意)とされていました。

 

真帆はかすみが無性愛者であることも受け入れ、シンデレラが王子様に媚びないネオシンデレラを作る提案をします。

 

ちなみにこのネオシンデレラ、

まさかのノーチェックで園児の保護者の前で公開され、挙句にかすみが怖気づいて途中で強制終了してしまいます。

 

園児たちは意外にウケていたのが今っぽくて面白かったです。

 

ただここで真帆の父親に「多様性とは普通の感覚を身に着けたあとで教えるもの」というゲス台詞を言わせるためだけにノーチェックだった感があり・・・。

ゲイの同級生などもいる職場なので、意外に「いいねいいね」となった経緯でもあれば納得感があったのになあと思ってしまいました。

 

第4章「受容」

ただし、このネオシンデレラは、のちにゲイの同級生によって新人保育士に見せられることになります。

 

北村匠海演じる新人保育士こそ、かすみが待ち望んでいた「同じタイプの人間」であり、ラストシーンに彼から掛けられる言葉が、かすみが自分の性質や生き方を受け入れるきっかけになるのでした。

 

そういう意味では、時間を越えて自分の背中を自分で押したことになりますね。

 

かすみに対する違和感の正体

さて、本作への違和感は、ほぼほぼ「かすみ」というキャラクターへの違和感かなという気がします。

 

逆に、ずっとおせっかいなお母さんや、情緒不安定な妹、勝気な真帆など、周りのキャラクターは一貫性大ありで、なぜ主人公だけがブレブレです。

おそらくそれ自体は狙いで、ラストシーンでようやく彼女の人生が動き始めると示すためのブレブレっぷりだったのだと思います。

 

ブレるにも軸は必要

ただ、実際にいるブレブレの人って、ブレる理由があると思うんです。

 

たとえば「嫌われたくないから目の前の人に同調してしまう」とか、

「その時の気分で自分が一番トクするように動いてしまう」とか。

 

かすみのブレ方は「脚本的にありがたいから」という感じで、「ブレるための軸」が見えないのが違和感の原因だと思いました。

 

一貫して感じたのは「無性愛者って隠してるの? 本当に隠したいの?」と思う行動の数々です。

 

絶望的なまでの共感力のなさ

無性愛者というマイノリティであるかすみは、他人の持つ「恋愛感情」を理解できないまま30歳まで過ごしてきました。

その過程で特に周りに合わせて恋バナをでっちあげるなどもしてこなかったようで、妹からは「私は関係ないって顔して生きてる」などと評されています。

 

しかし恋愛の話題を無視するということは、一定量のコミュニケーションを放棄するということでもあります。

 

冒頭の合コンシーンでは明らかに「空気の読めない人」枠になり、職場では子どもたちの恋バナに上手く合わせることもしません。

自分に好意を寄せてきた男性のことも必要以上に傷つける言葉を繰り返します。

 

「一般的に恋愛感情のある人はこういう時どうするのか」という知識は、巷にあふれかえっていますし、避けようと思っても避けられないレベルで散らばっています。

隠れ蓑としてですらそういったことを身に着けずにいるのは、無性愛者であることを誰にも話そうとしない部分との矛盾を強く感じました。

 

いやいや、彼女は隠したいんじゃなくて、「恋愛感情がない」って言っても信じてもらえないからなんだよ!

と擁護することはできそうなのですが、映画で切り取られた時間の中では、彼女がたとえば家族に向けて真剣にそういうことを言い続けてきた感じはしないんですよね。

 

多分彼女が言った「誰も信じてくれないけど」の中には、「私恋愛とか分かんないんだよね~w」のテンションでしか打ち明けていないものもかなり含まれるのではないでしょうか。

そりゃイキってるだけだと思われますよ。

 

ネオシンデレラを作ってしまったのも、ある種「共感力」のなさと言えるかもしれません。

多分真帆なら最後まで発表したと思うのですが、かすみは保護者の反応を見て咄嗟に中断してしまいます。

 

自分をさらけ出したように感じて怖くなってしまったとも捉えられますが、いずれにせよ「世間」の反応を想像しきれていなかったということで、そういうところだぞと思わずにはいられませんでした。

 

他者のかすみ評から見えるかすみという人間

ただ、かすみという人間は、自己評価と他者評価が大きくズレているキャラクターでもあります。

このズレはすごくリアリティがあって良かったなぁと思いました。

 

他者から見るかすみという人間

他のキャラクターのかすみ像は概ね一貫していて、彼女の学生時代のふるまいを想像させるものになっています。

 

「蘇畑になら言ってもいいかなと思った」

「みんなが蘇畑みたいなら、こっちに帰ってくる必要もなかった」

と、ゲイであることを打ち明けた同級生。

 

「地元帰ってきたらかすみちゃんがいて、これは誘うしかない!って思った」

という真帆。

 

「私には関係ないって顔して生きてる」

という妹。

 

おそらくかすみはずっと飄々としていて、誰に対してもフラットな態度を貫いていたのではないかと思います。

学生時代なんてほぼ勉強か恋愛しか話題がありませんし(過言)、恋愛に対して一定の距離を置いている人間がそう見えるのも不思議ではありません。

 

実際のかすみという人間

その一方で、みんなの前で教員から叱られたときに真帆がかばってくれたことをお守りのように覚えているかすみは、外から見えていたほど達観した人間ではなかったことが伺えます。

 

現在のかすみも、人間関係に対して不器用なところは変わっていません。

 

お見合いで恋愛しない仲間を見つけて喜んだり、「逃げたければ逃げればいい」と言ってしまうような単純さは、むしろ子どものままのようでもあります。

 

ゲイであることを打ち明けてきた同級生にも変なフォローこそしなかったものの、向こうが勝手に好意的に捉えてくれただけで、かすみ自体はただ戸惑っていただけなんですよね。

 

言ってしまえば、学生時代の他者からかすみに対する印象は概ね過大評価だったのでした。

それがラストシーンに、初めて正しい自分を見つけてもらい、うれしくて駆け出していきます。

 

よかったね・・・。

「わからない」「わからない」ばかりで、チェロで代弁しなければいけないほど何かを考えている印象のない主人公で、今一つ入り込めない映画でした。

 

エンディング、明らかに羊文学の音なのに塩塚モエカっぽい塩塚モエカじゃない声がして「なんだこれ??」と思っていたらまさかの三浦透子カバーでした。

印象よりも高くて可愛らしい声でした。