映像化不可能のドラマ「十角館の殺人」ネタバレ感想
綾辻行人の「十角館の殺人」といえば、内容を知らずとも名前は聞いたことがあるであろう超有名ミステリー小説です。
私が物心ついたときにはすでに学校の本棚にも必ずある「古典作品」となっていたので、なんだかんだ手に取らないまま大人になってしまいました。
その有名たる理由のひとつが「実写化不可能」と言われるトリックであるということも今年まで知らなかったのですが、それが実写化するというので良い機会だと思い、原作を読みました。
本記事はネタバレしかありません。
原作未読・マンガ版未読・huluドラマ未視聴など、これから各「十角館の殺人」関連作品に関する初見の驚きを失いたくない方は自衛をよろしくお願いいたします。
実写化不可能「十角館の殺人」原作の感想
というわけで最初に読んだのはもちろん原作。
叙述トリックと知っていても面白い
「実写化不可能」といわれる作品である以上、
何らかの叙述トリックなんだろうな~とは思いつつ、エンジョイ派なので特に何も考えずに地の文をどんどん読んでいきました。
「叙述トリック作品にとって最大のネタバレは叙述トリックが使われていると明かされること」とはよく言ったものですが、それを差っ引いても面白かったです。
そもそも叙述トリックだって色々ありますからね。
「十角館の殺人」を神格化している「あの一行」には私も興奮しました。
なにせエンジョイ勢なので本土と角島がそこで交差するとは思いもせず読んでおり「ふ~~ん、え!!?」と。良い読者です。
小説である以上、私たちは好き勝手に登場人物たちの顔を想像しながら読みます。
当然、本土には3人、角島には7人がいると思いながら読んでいて、そのうち1人が重なるなんて思いもしなかったです。
というわけで「そりゃ実写化不可能なわけだ」と納得しました。
そしてその時点で刊行されていたコミカライズ版に「どうやって!!?」と思い、LINEマンガで読んでみました。
マンガまではまだわかる
小説が好きに登場人物を想像して読むと書きましたが、マンガだってある意味そうですよね。
たとえば、あだち充作品の主人公がずらりと並んだネットミームをご存じでしょうか。
国見比呂と立花投馬の違いなんて「別人です」って言われるから「承知しました」となるだけで、同一人物ですよ。
これは別作品だから良いものの、単純に書き分けが明確でないマンガ作品は世の中にたくさんあります。
ですから、「十角館の殺人」のトリックをマンガでやるのは、まあ何とかなるだろうと思いました。
そんななかで「十角館の殺人」コミカライズ版は、思った以上にしっかりと真正面からトリックに取り組んでいました。
もっと似たような顔のキャラクターばかり出てきて「ん?似てる?」という違和感が無意味になるような手法を取っているかと思っていたんです。
しかし知らずに読めば違和感のない形で、両サイドに犯人が登場していました。
ネタ晴らしのシーンでも、絵柄に頼りすぎだ!ずるい!などと思うことはありませんでした。
記憶をなくして観たかった実写版
というわけでいよいよ3月22日から配信された実写版「十角館の殺人」
hulu独占だったので、わざわざこのためだけに入会しました。
結論だけ言うならば「記憶を消して観れたならきっと面白かった!!!」
オチを知っている状態で見るには、演出がわざとらしすぎるように感じてしまいました。
いくらなんでも不自然だった
「同じ人物が別の名で呼ばれていることに読者だけが最後まで気づかない」トリックを実現させるために、小説では表記を変えればよく、マンガでは髪型を変えればなんとかなりました。
しかし実写である以上、演者が同じことを隠すことはできません。
どうするのかなと思っていました。
いっそ、ヴァンは堂々と映して、守須を足元だけしか移さない演出とか?と予想していました。
どのみちトリックが分かっていない段階では、「安楽椅子探偵を気取っている」謎のキャラクターがいても、それほど違和感ではないかなと思ったんです。
しかし、その予想は覆され、ヴァンも守須もしっかりと登場していました。
ただ、明らかにヴァンの台詞が少なく、当然のことながら顔がアップになるシーンはありません。
せっかく序盤で「招待した人間が犯人と相場は決まっている」という疑いを向けられた上でしっかりと無実を強調されるくだりがあるのに、実写版のヴァンはなんだかんだでずっと怪しいまま4話分進んでいくのが残念でした。
ただ、本当にこればかりは仕方ないですよね。
顔映ったらばれちゃいますからね……。
数々の工夫された演出に拍手
工夫はいたるところにありました。
ありとあらゆる「自然に顔を映さないで済む」カット割り、
一人の人間が同じコミュニティ内で「イメチェンした?」と言われない範囲の見た目の振れ幅(メガネと前髪)、
話し方や声色も同様に、同じ人間が弱った時と普段通りの時でギリギリ自然といえる範囲で変えていたと思います。
そもそも当該人物役の俳優さんがあまり有名では「あれ、どっちもAさんじゃん!」となりますから、これまでにそれほど出演作が多くない若手俳優の方を起用されています。
それでいて、顔つきに独特な雰囲気のある方で、ただ顔の印象を薄くしようということではない心意気を感じました。
私なんかは顔認識スキルが異常に低いので、おそらく何も知らずに視聴していれば全く気づかなかったと思います。
ドラマとしては微妙だけど千織の愛おしさは随一
ただ、初見で観たかったドラマでありながら、何も知らずに見始めて最終話まで観ただろうかというと、それはそれで微妙だと思います。
1話ごとの引きが弱く、早く次の話を観たい!!という感じではないんですよね。
1人1人の登場人物の心情を深く掘り下げるわけでもなく、最後に衝撃が待っていると知らなければ見続けなかったと思います。
口うるさい大家さんなど、オリジナル要素の追加も間延びしていて必要性が分かりませんでした。
ただ、個人的には原作よりマンガより優れていたと思う箇所がひとつあって、中村千織の死がヴァンを突き動かしたという説得力です。
ドラマ版の千織はとてもいたいけでした。
親に愛されてこなかった自分の、しかも特別な「はたちの誕生日」を、恋人含む仲間たちに祝ってもらいたいという動機は、おとなしい女子が珍しく飲み会に最後まで参加して少し無茶な飲み方をすることに納得できるものでした。
叙述トリックものの実写化が難しいのは当然のことですが、これからも「イニシエーション・ラブ」ばりの大傑作が生まれることを諦めず待ちたいと思います。
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